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乗光寺の歴史

何百年来、私たちの祖先が常に崇敬し、護持して参りました乗光寺は、第四十九世出雲国造孝房卿の子、北島経孝卿が、大社明神の夢告によって明光上人に帰依し、出家して建立されたのに始まります。後鳥羽上皇の建保4年(1216)のことであります。

明光上人

明光上人は藤原鎌足公の直系で、父は藤原頼康、母は源義朝の娘であります。15才で出家し、慈鎮和尚の弟子となり、学徳一世に響きわたった比叡山の高僧であり、後、源頼朝の菩提寺鎌倉最宝寺の住職となられました。そのころ、祖師親鸞聖人は、念仏を弘めたことを咎(とが)められ、越後・国・府(現在の直江津)にご流罪になりました。
比叡山で聖人と交わりの深かった明光上人は、これを悲しんで越後へお見舞いに行かれました。このとき、聖人はいろいろな問題や苦悩をかかえて生きていく人生の救いは、念仏のほかにないことをおときになったのです。明光上人は、その場で他力念仏に帰依し、直ちに、聖人のお弟子になられました。

親鸞聖人

その後、明光上人は、山陽・山陰の教化を親鸞聖人から委託され、建保四年出雲を訪れられました。直ちに、出雲大社に参詣されましたが、その夜、宿を貸す人がなかったので、しかたなく、社前の金輪松の下で一夜をあかそうとおやすみになったのです。この夜、経孝卿は、夢うつつの中で、「極楽浄土より、衆生を救わんがために使僧がおみえになっている。私がこの世に神として現われたのは、衆生に縁を結んで仏法に引き入れるためである。あなたは、すぐにこの僧をお迎え申して、仏法を弘めるお手伝いをしてほしい」との、大社明神のお告げを受けられました。夢からさめて、不思議な思いで門前に出られると、金輪松の上に紫雲がたなびき、その下に念仏の声とともに、松の根を枕に休んでおられる明光上人に出会われ、国造の館に招かれたのであります。

慧燈大師

そして、明光上人から、如来の本願の広大なることを聴聞し、経孝卿夫妻ともに、金剛の信心をいただいて、上人のお弟子となり、経孝卿は俊信坊乗光と僧名をいただき、出雲大社の境内に一寺を建て、紫雲山乗光寺と名づけられました。明光上人は、この大社明神のお告げに基いて、乗光寺を拠点にして、九年間にわたって山陰・山陽をおまわりになり、教化に専念されましたので、草の風になびくように、多くの人びとがみ教をいただき、念仏を喜ぶ声は、各地に高く饗いたと申します。

乗光法師

大任を果たすことができたと喜ばれた明光上人は、あとを乗光上人に托して京都へとお帰りになりました。お別れを惜しむ乗光夫妻を始め多くの人たちに親鸞聖人お手づくしりの阿弥陀如来絵像など、数々の品をのこされました。それらは、今、寺宝として保存されています。 私たちは、先祖から伝えられたこの聞法の道場、乗光寺を中心に、明光上人・乗光上人のご恩を大功に、一つには神意にそい、一つには仏心にそう想いから、念仏のみ教が、さらに弘まり、子々孫々に正しく伝えられるよう精進させていただきましょう。